『PSYCHO-PASS サイコパス』 by 本広克行
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読んだ/観た日:2020/04/27 - 2020/04/28
☆映画/ドラマ/アニメ総合:4.4
ストーリー:4.7
キャラ:4.7
映像:3.8
音楽:3.8
独創性:4.0
世界観:4.0
深さ:4.5
爽快さ:4.0
おしゃれさ:3.5
他の人におすすめ:4.0
あらすじ/概要
TVシリーズ1期全22話を1時間番組の全11話に再編集し、新規カットを追加して放送する「PSYCHO-PASS サイコパス 新編集版」
人間の心理状態や性格的傾向を計測し、数値化できるようになった未来世界。あらゆる感情、欲望、社会病質的心理傾向はすべて記録され、管理され、大衆は「良き人生」の指標として、その数値的な実現に躍起になっていた。人間の心の在り方、その個人の魂そのものを判定する基準として取り扱われるようになるこの計測値を人々は「PSYCHO-PASS(サイコパス)」の俗称で呼び慣わした。犯罪に関する数値も“犯罪係数”として計測され、犯罪者はその数値によって裁かれる。治安維持にあたる刑事たちは常に、犯人を捕まえる実動部隊となる“執行官”と、執行官を監視・指揮する“監視官”のチームで活動する。 (C)サイコパス製作委員会
目次
オリジナルの各話サブタイトルを2話ずつ。今回見たのは新編集版でサブタイトルはないが、概ねオリジナルの2話ずつを1時間(✕11話)にまとめているとのこと
犯罪係数 / 成しうる者
飼育の作法 / 誰も知らないあなたの仮面
誰も知らないあなたの顔 / 狂王子の帰還
紫蘭の花言葉 / あとは、沈黙。
楽園の果実 / メトセラの遊戯
聖者の晩餐 / Devil's Crossroad
深淵からの招待 / 甘い毒
硫黄降る街 / 裁きの門
鉄の腸(はらわた) / 水に書いた約束
透明な影 / 正義の在処
血の褒賞 / 完璧な世界
鑑賞中メモ
とにかくキャラがいい
凛として時雨よき
「愚か者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
選べる者と選べない者、何が基準なのか
この作品のテーマは?:善とは?健康とは?強いとは(=シビラ?アナクロでクラシカルな強さ。)?健全とは?正しいとは?”精神疾患”とは?”精神疾患ではない”とは?究極の社会とは?
敵はプラトン信者が多いな。イデアとの対決もテーマなのかな?
「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらを見つめている」
アナーキズム:シビラとの対極としてのキーワードのようでいて違和感もある、それはマキシマがアナーキストかというと違和感があるという言葉からもわかる。
力を与えてみればいい。法や倫理を超えて自由を手に入れたとき、その人間の魂が見える時がある。
安易な手段で手に入れた自由は、すぐにチープな万能感に負ける
御堂将剛:アイドル=イデア
王陵璃華子:押し付けられた幸せ。本当に望む姿。本当の自分の価値。
殺意と手段。本来揃うはずのなかった2つを
大抵の人間は牛や鳥は殺せても、チンパンジーはそう簡単にはいかないだろう。絵を描く動物は殺しにくくなる。何か感情があるのではないか。表現する、ということにはそれぐらいの価値がある。
近代に入って、絶対的な価値観の追求を諦めた。相対的な価値観を中心に。それは、絶対的な価値観は不要になったからではなく、すっぱいぶどうだとして諦めたからだ。
シビラ認定作品、シビラ推奨作品、表現することを侮るようなやり方は、社会に致命的な停滞をもたらす
安らぎと言う名の病。人々が望んだ死の形。
ユーストレス欠乏症:過度のストレス治療による心臓発作。ストレスが麻痺、刺激を近くできない。
良妻賢母という家具
泉宮寺豊久:肉体の老いは克服した。あとは心。
完全を求めて歪んでいく犯罪者たち。イデアはすっぱいぶどうなのか?
いや、それぞれが持つ完全の姿。それがシステムの正規分布に収まらなかった人々が、歪んでいく、いや、歪みとして定義される。
決断ができない人間は、欲望が大きすぎるか、悟性が足りない
完璧な計画とは、
システムは完璧であることよりも、完璧と信じられることが重要である
もっとも厄介な欲望は、自己顕示欲だと思う
退屈 <=> 興奮
味をしらないなら、誰もはちみつを盗もうとはしない
伊藤計劃好きなのか、電気羊は、ギブスン
刑事の仕事は始まった時点で負けている
感想/考察
2回目だけどやっぱいいなー。初見とは印象が違う。
これはイデアとの戦いだったのかな。イデアはあるのかないのか。あるべきなのかないべきなのか。目指すべきなのか目指すべきでないのか。
”完璧なシステム”の中で、”人”と判定されなかった人間はどうするのか、どうなるのか
完璧なシステムとはなにか
結局、完璧とは人間の定義の問題なのだ。個々の完璧の定義の集合としての完璧。それに限りなく近く、そして一つに統一されたものであるために、シビラは特異点を収集し、多様性を保った状態で、それぞれの完璧の最大公約数によって完璧を定義する。それで割り切れない素数たちを、排除、または取り込むという運動を続けることで完璧を維持する。んーなかなかよくできたシステム。
何かしらの集合体を営む以上、そこにはルールが必要だ(たぶん)。
となると、そのルールに従いたくない人間が出るのは当然だ。例えば人を殺してはならないという当たり前のように見える法律でさえ、人を殺したいと思う人間には意味がない。それを思わないようにさせるためには、洗脳するか、方法を与えないか、バツを設定するか、悟ってもらうしかない。現代はもっぱら最初の3つで達成されている。
殺してしまった人間には、更生を
その動的なシステムを、人は完璧でないと感じる。ルールを逸脱する存在が存在しているから、そこを欠陥だと感じるわけだが、本来的な完璧とはその逸脱すら内包してしまうことなのだから、それができない=例えば人を殺してもいい、という風にできないというのであれば、そういった意味での完璧にはなりえない。
絶対に限りなく近いシビラと、そこからの逸脱に対処する公安局という構成は、常守朱が認めた通り、アニメの世界設定において選択できる最良の社会といっていいのではないか。
だがしかし、この社会の最大の破綻は、マキシマが指摘した通り、善の決定を外部にそっくり委託してしまったことだ。何かを固定する、定義する、今回のようにシビラが善を定義する、ということは、それと同時にその定義外を定義してしまうこととなる。なぜなら全てを内包する完全な定義とは、定義しないこと以外にあり得ないからだ。善が本質的には個人の主観単位で生成される以上、社会的に善を定義して、それを運用するということは、決めつけであるという了解がなくてはならない。最大多数の最大幸福のための善であって、全員の善ではないことを了解し、そこに収まらない人々に、それに従ってくれとお願いをしなければならないのではないか。
この社会の破綻を、マキシマは破壊によって実際に破綻させてみることで明らかにしようとし、狡噛は不完全な世界の完全を守るため不完全は不完全によって処理されることを望み、常守朱はシビラを超えるシステムがいずれ誕生すると予言し現行世界の維持を選択した。
固定された善が個人の人生にまで干渉するとするならば、それは不健全だと言わざるを得ない。
いや、干渉するからこそ顕現する個人の善もある。何が正しいかなんてのは永遠に定義不足だ。
現代社会は個人にある程度の権限を与えている。その点において、今は今で理想的な状態ではないだろうか。現代社会制度については細かい不満はあるものの、概ね理想的と言える。「私にとっては」。
中央集権的な善の決定は、その規範から外れるものによって覆され、善が分散されればそれによって脅かされた善によって”絶対的な善”が求められる。
人間には能力にヒエラルキーというか、差異がある。女王アリと働きアリのような違いが。能力的な分散は多様性を担保する上で必要であり、また進化の過程としての必然である。個人的な体感としては、支配に向いた人種が1割、それ以外が9割といった感じだろうか?原始的な集団においては、当然の流れとしてその1割が支配をし、集団を率いたし、その支配的な傾向が遺伝するという可能性の方が、その集団内に他の支配的人種が発生するより可能性が高いのだから、自然と血統による支配がなされていく。だがしかし、その確率は時とともに減衰し、支配層のあるべき人種と実態がずれていく。そこで9割の中に偶発的に発生した支配的人種が革命を起こして支配層を入れ替える。だがこの入れ替えも、多くの損失を伴うことから効率的に行う必要が出てくる。そうして民主的な方法が取られることとなる。
支配的人種とはなんだろうか。おそらく定義できる者、ではないだろうか。結局この世に真の善というものは存在し得ない。なぜなら主体がなければ善は語れないからだ。この世界に主体があるのは、人間がいるときだけだ。故に自然界に善というものは存在せず、善とは人間が創造したものだといことになる。それを定義する者が支配的な人種となる。いや、支配的傾向というのがそもそも定義出来ないし、画一的なものでないからこそ支配が一定しないのだ。
だが支配者が職業になった現代において、そういった人種が支配をするようになるとは限らない。いや、昔もそうか…わからないな。
能力的な分散を廃すればどうなるか。事象は基本的に善悪のない状態で発生するのだから、能力的な分散がなくなれば対処できる対象が減ってしまう。
最後のマキシマの作戦は賛否ありそうやなー。なんで突然そんな全体攻撃に切り替えたのか。一極集中という歪みをイデア的象徴として描いたことはわかるけれど、彼にとって犯罪とは、個人の内在を見つめることにあったのではないのか。いや、シビラというシステムそのものに対する警鐘なのか。警鐘?人類を愛していると彼はいった。彼にとって人類とは自己を含むのか。
マキシマの犯罪とはなんだったのだろうか。そういった定義ができるものなのだろうか、そもそもそういった「なんのために」を定義しなければならないのだろうか。